Section1 出会いは突然に



1998年 8月20日(月)

その日も、ジリジリと真夏の勢いを忘れない太陽が輝いていた。まだ、夏は当分終わりそうにない。東京の大学に入学して、早1年余りが過ぎようとしていた。
「こんなところにトレーニングジムなんてあったんだ。」
 きっかけは、単純だった。2ヶ月以上も一度に休暇を取れるなんて学生の特権だ。大抵、都内の学生は、サークル活動に精を出すか、田舎に帰省する。事実、俺だってそうやってきた。しかし、今年の夏は、違っていた。予感がしたんだ、何か、新しいことが始まるんじゃないかって。かく言う俺は、東京農業大学2学年小林ヒロキ(19)。
「すみません、入会希望なんですけれど。」
「どうも、今日は。それでは、こちらの用紙に必要事項を記入して頂けますか。後、後日、写真と銀行などの通帳、印鑑をお持ち頂けますか。只今、キャンペーン中で、入会金は無料になりますが、月々会費として5千円頂きますがよろしいでしょうか。」
「五千円。高いな。でも、この1ヶ月だけだし、ま、いいか。」
「ありがとうございます。では、こちらの用紙にご記入ください。」
「ここですね。」
「はい。ありがとうございます。では、中を案内致しますので、私の後に付いてきてください。」
「あっ、はい。」
 次の日から、ヒロキの全く新しいライフスタイルが始まった。定時にやってきて、定時に帰る規則正しい生活。
「ちゃんと生活しているじゃん、俺。今までの腐敗しきった怠惰な毎日ともお別れだ。」
 そして、10日が過ぎようとしていた。体重も順調に減ってきた。顎のラインも、会員証のそれよりもシャープに整ってきたのが、はっきりと目に見えて分るようになってきた。日に日に、全身鏡の前に立っては、自己満足の笑みがこぼれる。
「ふふふ、完璧だ。もう、目的の体重も達成することができたし、明日は、秋葉原辺りでも徘徊しに行こうかな。」
 ヒロキの欠点の一つは、諦めが早過ぎることだ。一月分の会費が、このままでは、半分の価値もない。明日の今頃は、秋葉原のマニアックな店で、マニアックな客と肩を並べているのだろう。
 だが、ヒロキの足取りは停まった。
「嗚呼、なんて事だ。明日も絶対ここにやってくるぞ。」
その先は、黒曜石のような輝きを放つ美しい髪に、クリンとしたガラス玉のような瞳。頭の天辺からつま先までナイスプロポーションの一人の女性だった。まさに、それは、華の女性インストラクター。
「嗚呼、美しい。彼女こそ、この不毛の地に舞い降りた天使だ。」
ヒロキは、その場に呆然と立ち尽くし言葉を失った。しかし、彼女が、他の人の指導をしているのを見ると、あまりにもつらくて、凍り付いた肉体に逆らって必死に目を背ける。
「くそっ。」
次の日からヒロキは、まるで脱殻のように、我を失いかけていた。彼女を目にしてしまったせいで。
「"切ない"日本語には、なんと的確な表現があることだろう。このままじゃ俺、頭と体がどうにかなってしまいそうだ。もう、いっそのこと、骨が砕け散るまで身体を痛めつけてしまおうか。」
ダンベルの重量を最大まで上げて、ガシャガシャ息も絶え絶え繰り返し繰り返し、腕を、足を痛めつける。
「駄目ですよ。そんなに無理しちゃ。初めは軽く、呼吸を整えながら行ってください。」
「えっ。」
額から、雨宿りをした直後の顔のように流れ落ちてくる汗の向こうに、ぼんやりとしか映らなかったが、やがて、鮮明に我が目に飛び込んできた。
「明日、このジムで夏季恒例のパーティやるんですけど、小林さんも参加しませんか?」
中腰でヒロキに話しかけてきたのはまさに、憧れの彼女だ。天使のような優しい笑顔に、心温まる声。初めて耳にするが、外見通りの美しい声紋だ。ヒロキは、なんと答えたら良いか、戸惑いを隠せなかった。
「あ、あの。」
「はい?」
「あっ、いや、何でも。俺、参加します。」
「良かったァ、是非、来て下さいね。開始は六時からですので、十分前には、フロントの方に来てください。」
「あっ、はい。必ず行きます。」
平静を装っていたが、ヒロキの内心は、感動で渦巻いていた。5秒か、10秒か、その辺の時間の経過は分からないが、しばし、その内、ぼんやりと夢見心地になる。ここまで、蓄積された重い気持ちがフッと軽くなった気がする。彼女の溢れんばかりの笑顔を、目の当たりにしてから。
「なぜ今まで、こんなに悩み続けてきたのだろう。バカじゃないのか、俺。アハハハハハハ。」
なんて、爽快。なんて、軽やか。すっかり舞い上がったヒロキは、心も体も嘘のように爽快にジムを後にした。ビルの谷間から臨む大きな夕日が、そんなヒロキを後押ししているかのようだった。


前章へ目次へ次章へ