Section14 日帰り温泉旅行



十一月二十三日(月)

 そろそろ、紅葉の美しい季節になった。例のように、東京ウォーカーをめくると、「恋人と泊まる温泉宿」特集があった。ユキエと、綺麗な紅葉鑑賞と身体休まる温泉に出かけよう。
「もしもし、ユキエ。明日の紅葉鑑賞の件だけれど、場所は、本厚木に決めたんだ。それで、近くに温泉とかあるから、一応、着替えとかも用意してきて。それじゃね、下北沢の下りのホームに九時半待ち合わせでいいかな。うん、じゃ、また、明日。」
月曜日は、大学の講義はなく、今期は、必然的に週休3日であった。勿論、勉強するために大学に入学したわけであるが、大学という機関が、単に勉強するところだけではないことは明らかだ。余りある時間を如何に有効に活用するか、それは、人それぞれである。バイトをするも良し、課外活動に没頭するも良し、趣味に嵩じるのも良いだろう。ある映画の就職も面接にこんなやり取りがある。
大学は大学だ。社会では通用しない。高校出て社会に出た方がましだ。
大学は何の役に?
楽しんだろ?
ユキエも、月曜日は、非番だったため、二人の作る時間が圧倒的に増えたのは、この上なく嬉しかった。
 翌日、明大前から京王井の頭線で下北沢まで行く。ほぼ、時間通りだ。通勤時間も過ぎているということもあり、幸いにも混みあっておらず、ホームを走って、指定の場所へと急ぐ。ホームの突き当たり付近には、線路の方を向いて、バッグを抱えている女性が一人。ユキエであった。慌てて、駆け寄ると、
「ごめんね、待った。」
「あっ、ヒロキ。おはよ。今朝、すごく早く起きちゃったから、準備して来ちゃった。もうすぐ、準急来るから、それに乗って行きましょ。」
「そうだね。」新宿から渋谷界隈が活動拠点のヒロキにとって、ここまで来るのは初めてである。 約1時間弱、目的地、本厚木に到着した。
「やっぱ、空気が違うねえ。」
「ヒロキ、早く。バス探そう。」
「うん、地図だと向こうなんだけれど。」
「あっ、見て、ヒロキ!ピカチューのバスがある。あれじゃない?」慌ててバスに駆け寄る。まさにドアーが閉まらんとしていた。
「待って。あ〜、行っちゃった。都内のバスはね、前に入り口があるから、運転手さんに呼び止めることが出来るんだけれど、こっちは、中央にあるから、不便なのよね。」
 ユキエの機嫌を損ねてしまった。ピカチューバスに、よほど、乗りたかったのだろう。楽しいデートに水を射す形になってしまった。
「仕様がないから、次のバスが来るまでその辺のゲーセンで時間潰して行こうぜ。」ヒロキは、何とかご機嫌を直してもらおうと必死だ。
「そうね、そうしましょ。」ユキエに笑顔が戻る。とは言え、ここは、ヒロキには、あまり馴染みの薄い空間であった。高校生まで規則に忠実、生真面目な一生徒だったため、いざ、こういう機会に遭遇すると、まるで勝手が解らない。どうしよう、何を、どうすればいいんだ。
「ヒロキ、これ、やろう。」
 ユキエが、指したのは、バイクのレーシングマシーン。
「いいよ。どっちが先にゴールするか、競争だね。」
 とは言え、ユキエは、ほんまもんのライダー。ヒロキはアクセルの架け方さえ知らないド素人。結果は、火を見るより明らかだった。こんなことなら、高校時代に、もっと遊んでいれば良かった。
 約30分後、ピカチューとは違うバスで、温泉郷に向かった。「ピカチュー、乗りたかったなあ。」ユキエは、先程の一件を思い出し、愚痴をこぼした。
「もう、いいじゃん。ほら、紅葉が綺麗だよ。ユキエ。」「本当。綺麗ね。」
「え〜、次は、美登利温泉前。御下りの方は、お知らせください。」
「おっ、着くぜ。ユキエ。降りよう。」二人だけ降車すると、そこは、人通りのない閑散とした所であった。
「ヒロキ。本当にここでいいの?」ユキエが不安気に尋ねるので、バッグから東京ウォーカーを取り出し、もう一度、位置の確認をする。
「うん、いいよ。後は、徒歩一五分だって。紅葉見ながら歩いて行こうぜ。」
「そうね。ヒロキ、見て。この落ち葉、いい感じじゃない。私、陶芸に使ってみよう。」
「へ〜、陶芸に使えるんだ。だったら、袋に綺麗な葉、集めようぜ。」青、赤、黄、色とりどりの落ち葉拾い。葉の形も、一枚一枚に個性があり、面白い。「そろそろ、出発するか。」「そうね、これだけあれば十分だわ。」
 地図通りに歩いて行くと、ある看板を発見した。そこには、"美登利温泉まであと、1キロ"と書いてあった。
「あと、1キロもあんの。まさに、秘湯だな。」
「ヒロキ、お腹すいていない?」
「そうだな。どっかで、お昼にするか。」
 手巻き寿司を駅前で買っておいた。しばらく行くと、どこかしら、小川のせせらぎが聞こえてきた。
「ユキエ、近くに川があるみたいだよ。行ってみよう。」
「うん。」その方向には、もうもうと煙が上がっていた。
「あれ、なんだろう?温泉の湯気にしちゃ、真っ黒だし、焚き火でもしてんのかな?」
「さあ〜、とにかく、行ってみましょ。」
 見ると、伐採した草木をおじさんが、焼却しているようだ。道路の上から、その様子を眺めていると、丁度、川原に降りるルートがあった。
「すみませーん、川原に降りたいんですけれど、ここから降りていいですかー?」
 ヒロキは、おじさんに向かって、大声で聞いてみた。
「気を付けな。ちゃんと、彼女の手を引いてやれよ、ニイチャン!がっはっはっは。」
"彼女"と客観的に言われるのは初めてだが、言い知れぬ感動があった。
「はーい、ありがとうございまーす!」
 かくして、川原に降りたヒロキとユキエは、早速、お昼ご飯を食べることにした。密林に囲まれ、小川のチョロチョロとした音だけが響き渡っていた。先のおじさん達からも死角となる静かな川原だ。
「静かで、いいところだね。」
「そうねえ、ヒロキ、見て。この川、鯉がいるよ。」
「あっ、本当だ。放流してんのかな。」
 全てが、二人だけの世界と思われるこの空間で、二人は、また、淡いキスを交わした。再び、道路に上がり、温泉目指して歩いていくと、再び、看板を発見。だが、そこには、『猪にエサをあげないでください』
「ヒロキ、猪がいるんだって。見に行きましょ。」
「おう。行ってみよう。」
 看板脇、10メートルほどに確かに猪が3頭いた。排泄物だらけの檻に閉じ込められていた。
「なんだか、かわいそう。」ユキエが泣きそうな声を上げる。でも、どうにもフォローしてあげることができなかった。 さらに、二十分ほど歩いただろうか、ついに、美登利温泉の看板を発見した。
「ユキエ、見て!着いたよ。」
「あっ、本当だ。私、早く、温泉入りた〜い。」
「俺も。すごく汗かいたしネ。ユキエ、こっちから行けるよ。」
ユキエの手を引いて、竹で囲まれた柵の中に入る。
「ユキエ、まだ、誰もいないよ。入ろう。」
「なんだか、ドキドキするね、ヒロキ。」
ユキエと二人きりで入る露天風呂。苦労して辿り着いた分、疲れと共に、安堵感が湧き出てきた。
「ああ〜、極楽極楽。」
「気持ちいいねえ、ヒロキ。」
「ああ、本当。最高。」
ふと、横を向くと、眩いばかりの彼女の姿がある。本当に最高なのは、温泉よりもむしろ、ユキエの方だよ。うっかりしていると、紅葉の中に溶け込んでいってしまいそうで、恐かった。ヒロキは、たまらずユキエを抱き寄せた。今、この二人を邪魔するものは何もなかった。何も。


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