Section3 苦悩



9月15日(火)

あのパーティから、既に9日が経過したというのに、清水さんからは、何の音沙汰もない。
「騙されていたのだろうか。清水さんにとって、あの会話は、その場の流れにしか過ぎなかったのか?」
不安な気持ちで、ヒロキの胸は、得体の知れぬ何かに、押しつぶされそうになった。
いつものトレーニングも、力が入らない。このところ、体調が芳しくない。食事も喉を通らない。夜も眠れない。まるで、見えざるナイフで、少しずつ、この身体を削られているようだ。
「結局、からかわれていただけなのか。所詮、こんなものなのか、男と女の関係なんて。」
苦しい、いとおしい、切ない。自戒の念が、次々とヒロキに襲い掛かる。こんなことなら、普段通りに遠くから彼女を眺めているだけの方が、良かったではないか。なぜ、あの時、声を掛けに行ってしまったのか。そうしなければ、今頃、こんなに苦しむこともなかっただろうに。
「嗚呼、恋は、なんて残酷。何かの映画で、"恋は知らないよりも、振られた方がマシ"なんて言っていたが、そんなこと、絶対あるものか。あの時、清水さんを見掛けさえしなければ、清水さんの存在に気付いてなければ、清水さんを知ることなく過ごしていれば、こんな、つらい思いをせずに済んだだろうに。嗚呼、俺は、このまま、恋という重く、冷たい鎖に体中を巻きつかれ、ただただ、沈んでゆくことしかできないのか。」
ヒロキが、彼女のことを全て諦め、帰ろうかと控え室に向かおうとしたそのときだ。背後からヒロキを呼び止める声がした。
「小林君!待って。」
聞き覚えのある声。慌てて振り返ると、荒い息と共にいつものユニフォームではなく、こざっぱりした普段着を着て清水さんが小走りで駆け寄ってきた。一瞬、我が目を疑った。でも、確かに、清水さんは、自分の目の前にいる。そして、この間の約束をしっかりと覚えていてくれていた。
「この間の話、詳しく聞こうと思って、非番だけれど、寄ってみたんだけれど、少し、時間いい?」
荒く息をつき、膝に両手をついて一生懸命、走り寄ってきてくれた清水さん。そんな健気な彼女に、また、胸がキュンと絞まった。そして、その瞬間、これまでの重い気持ちとは一変、山際から差し込んでくる優しい朝日のような光明が、心を照らした。
「清水さん、最近見ないから、本当、心配していたんだよ。」
 ヒロキは、このとき、体の芯から生気が溢れんばかりに沸いてくるのを、感じずにはいられなかった。


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