Section5 彼女が部屋にやって来た



10月9日(金)

あの日を境に、二人の距離は確実に縮まった。そこで、ヒロキは思い切って、彼女を映画に誘ってみることにした。
「もしもし、小林ですけど、清水さん、明日は仕事、ある?ない。それじゃあさ、一緒に映画見に行かない?今さ、ディープ・インパクトってやっているんだけれど。いい!?」とりあえず、第一関門突破。
「じゃあさ、この前と同じモスの前に十一時待ち合わせって事で。今度は、新宿だから、京王線で行こうよ。うん、じゃ、また、明日。あっ、ついでに明日、俺の部屋に来ない?駅の近くだから。それじゃ、また、明日。」
 調子に乗って、大変な約束を取り付けてしまった。明日、清水さんが、この部屋にやって来るなんて、我ながら信じられない。だったら、こうしちゃいられない。さっさと、今の足場もないほど汚れきったこの状態をなんとかしないと。手に取れる範囲のゴミは捨てて、物を所定の位置に戻して、洗濯をして、皿を洗って、最後に掃除機を掻けて、雑巾でフローリングを磨き上げていった。
 一晩が過ぎた。だが、まだ、完全じゃない。もはや、午前中は、大学の講義に出ている場合じゃないと判断したヒロキは、同級生の"単位共同体"に、代返の連絡を入れた。
「もしもし、シンちゃん。俺だけれど、今日の2時限目の講義、代返よろしく頼む。ちょっと、急用ができちまって。ごめんね。次は、俺が代わってあげるからさ。うん、ありがとう。」
とりあえず、予約完了。この"単位共同体"とは、一年前に結成された講義に出られない場合や、試験の情報を団体で援助し合うというコンセプトの元、虫の良い学生が勝手に作ったグループで、同じ学科の中にも数グループ存在する。一年間も大学に通うと、このように要領の良い輩が出てくるのだ。出席の執り方は、カード方式と点呼方式の2種類。カードは、友人が、大量に確保してあり、既に、全員分、登録済み。後は、代表出席者に提出してもらうだけ。点呼は、意外と大変な作業で仲間内で、協力し合い、何度か返事をするが、要領が悪いと、こういうことになる。
「おい、おまえ、さっき、返事したろう?本人は、どうした?」
だからと言うわけではないが、ヒロキ達の班は、皆、要領が良い、つまり、頭の切れる精鋭ばかりを集めた。勿論、一度として欠席と赤点を出した者はいない。奇しくも、これが、大学生の実態であった。
 所定時間の1時間前。部屋は見違えるように片付いた。
「やっと、終わったァ。でも、待てよ。ここまで、綺麗だと返って不自然じゃないか。いかにも、たった今まで、一生懸命、片付けしていました、みたいな感じがするぞ。いかん、いかん。それは、まずい。」
そう判断すると、また、適度に汚してしまう。ここまで、掃除一つで神経質になったのは、生まれてこの方、初めての経験だった。待ち合わせの時間が迫ってきた。玄関の靴などを規律正しく並べると、甲州街道に向けて急いで自転車を漕いだ。今度、時間に遅れたりしたらひんしゅくものだ。果たして、清水さんは、まだ、来ていなかった。良かった。遅れること、約5分。清水さんも自転車でやってきた。
「ごめんね、少し迷っちゃった。自転車だから、近道して来ようと思って、路地とかは入っていったら、却って迷っちゃって。」
「全然、気にすることないよ。これで、おあいこだもん。じゃ、俺に付いて来て。」
 再び、来た道を戻り、清水さんをマンションへと案内する。
「どうぞ。」スリッパを差し出し、いよいよ、清水さんを部屋へと通す。
「すごーい。こんな所で、一人で暮らしているの?」
「いや、今、兄貴と二人暮しなんだ。」
「でも、こんなところで、二人で暮らしているのも、すごくない?」
「大したことじゃないよ。どうぞ。」
「それじゃ、御邪魔しまーす。」
 彼女が、俺の部屋にいる。この空間で、同じ空気を吸い、吐いている。彼女がいるだけで、どんな観葉植物も飾りもいらない。どんな高価なお香も、彼女の香りには敵わない。しかし、事件は起きた。
「ちょっと、小林君。お花、枯れているじゃなーい!」
何てことだ。花の水遣りは一晩二晩でやるものではない。もはや、この苦境から逃れる術を思い付くことはできず、こんなことになるなら、ミニサボテンでも飾って置けばよかったと、汚名を付けた花を睨みつけた。


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